業種 |
公社・官庁
福祉・介護/医療関連・医療機関/教育関連
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本社 |
愛知
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岡崎市は、愛知県の中央部に位置し、西三河の中心都市として、そして徳川家康公の生誕地として、悠久の歴史と伝統に育まれた美しい都市です。『一歩先の暮らしで三河を拓く 中枢・中核都市おかざき』の実現に向けて、市民生活・地域社会の充実、保健・医療・福祉の充実、環境共生都市の実現、
経済の振興、都市整備・生活基盤の整備、教育・文化の振興等、自立した都市経営の実現を行っていきます。
岡崎市では先輩職員が新入職員と1対1のペアとなり、指導・育成を担当する「チューター制度」を導入しています。新入職員にとってチューターとは、実務上の指導はもちろん、定期的な面談で1ヵ月の振り返りや翌月の目標設定をしたり、悩み事を相談したりと新入職員の成長を一番近くでサポートしてくれる存在です。仕事をする上で多くの職員と関わることになりますが、その中でもチューターとは、年数を重ねても変わらず、良き相談相手のような関係を築くことができます。チューター制度を活用しながら成長をサポートし、ひとりひとりの活躍の場を広げていく、そんな風土が岡崎市の自慢です。
新しいことを生み出すため、現状を改善するためには「アイデア」が欠かせません。そして、その「アイデア」を形にするためには「行動力」が欠かせません。これは、まちづくりも同じです。「アイデア」と「行動力」は、これからの岡崎をつくる上で大切な原動力になります。岡崎市は平成28年7月に市制100周年を迎えました。これから先の100年を見据え、岡崎という「まち」のため、岡崎市民という「ひと」のため、アイデア豊富で行動力のある人材をお待ちしています。
事業内容 | 『一歩先の暮らしで三河を拓く 中枢・中核都市おかざき』の実現に向けて、市民生活・地域社会の充実、保健・医療・福祉の充実、環境共生都市の実現、経済の振興、都市基盤・生活基盤の整備、教育・文化の振興、自立した都市経営の実践を行っていきます。 |
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設立 | 大正5年(1916年)7月1日 |
職員数 | 職員数 3,933人(令和5年4月1日現在) |
予算規模 | 一般会計当初予算額 1,342億円(令和5年4月) |
代表者 | 市長 内田 康宏 |
事業所 | 岡崎市役所:岡崎市十王町二丁目9番地 |
人口 | 383,789人(令和5年4月1日現在) |
世帯数 | 168,543世帯(令和5年4月1日現在) |
面積 | 387.20km2 |
岡崎市のあゆみ | 岡崎市のあゆみについてご紹介します。
矢作川や乙川流域に人々が住み始めたのは、約1万5千年前の旧石器時代といわれています。矢作川や乙川の肥大な低地は、水と獲物を求める大昔の人々の生活の舞台でした。 しかし、生活の中心はいぜん山間の丘陵部で、西三河平野はいわば辺境の地でした。乙川沿いの丘陵地には五本松遺跡が、国の史跡にされている真宮遺跡も丘陵の西端、標高16メートルの大地にあることから分かります。人々は弥生時代に入って人間らしい生活を始めました。稲作技術が伝わり、狩猟文化から農耕文化に移行し、それにつれ人々も平野部に移り住むようになりました。岡崎のあけぼのです。 古墳時代に富を蓄積した豪族たちは、多くの古墳を残しました。権力を誇っていた豪族たちも、やがて、より強大な大和朝廷に統合されていきます。今から1300年ほど前、岡崎の北西部、現在の北野町に壮麗・雄大な大伽藍が姿を現しました。矢作川流域最古の北野廃寺です。鎌倉時代には、足利義氏が三河守護職となり、矢作の東宿(明大寺)に館を構えました。以来、岡崎は東西交通の要衝としてだけでなく、政治の中心地となりました。子孫の尊氏が室町幕府を開くと、三河は幕府の直轄地として栄えました。 しかし、応仁の乱後、天下は戦国の世となり、群雄が割拠し、支配権を争いました。そのなかで力を蓄えてきたのが、家康の先祖松平氏です。大永4(1524)年、七代松平清康が安城から岡崎に拠点を移し、城下町の形成に力を注ぎました。織田・今川の間で苦難の時代を過ごした松平元康は、三河を統一。徳川家康と改め、慶長8(1603)年、江戸に幕府を開き、徳川300年の礎を築きます。城下町岡崎は、東海道五十三次の宿場町、矢作川の船運や三州中馬の中継地として栄えました。明治になり、新政府がとった文明開化・殖産興業・富国強兵政策の波は、急激に岡崎にも押し寄せます。水車動力のガラ紡、日本初の官営愛知紡績所の操業は、地場産業の発達を促し、東海道線の開通は岡崎の近代化を一層促進しました。明治22(1889)年、町制を施行。大正五(1916)年7月1日、全国で67番目に市制を施行。以後、西三河の中心都市として成長を続けています。 |